この新世界の片隅で

ワイドショーで、浴衣姿の彼が謝罪するのを見た。

あれほど、グループメンバーのことで謝罪するたび「なんで彼が謝るの」とファンを憤らせてきた彼が、自分のことで謝っていた。

 

8割は巻き込まれかなあ、と思う。顔を出さないわけにいかない飲みの場もあるだろう。

しかし、この新型コロナ渦のなか、主演映画宣伝で毎日何ヶ所もの現場を出入りする立場で、1杯だけ、30分だけで離脱しなかったことは、いいのがれしようのない彼本人の責任で、巻き込まれだからハニトラだから謝らなくていいなんて道理はない。むしろ、ちゃんとカメラの前で謝罪できて、彼のためによかった。

より悪い方はどこに隠れてんの? ではある。

 

今回の件、驚き、心配が深まったのは、この人はコロナ禍を理解していないのでは、ということだ。得体のしれない他人と顔を突き合わせて飲食するのは危険だ、自分が感染したらとてつもなく多くの人に感染を広げる恐れがある、という思考がないように見える。紹介されたら断れない状況だったとしても、なるべく早く抜けようともしなかった。朝まで酒宴に参加したのだから、危機感なく楽しんでいたことだろう。

同席者が未成年かどうかなんて本質的な問題ではない(何時間も話しててわからなかったわけある!?と疑ってもいる)のに、そこだけが法的に問題であってそこさえ否定すれば無罪ということにしたい会社にのっかって、本人もそう思ってるならもう絶望的にアホだ。

世界が疫病モードというパラダイムにシフトしたことを理解できていないのは彼だけではない。この国は政策も報道もめちゃくちゃなので、何が正しいのかわからなくもなるだろう。でも、わかってなかったでは済まされない立場なんだよ…。

 

正直、彼が感染の中心になってしまったり、この意識のまま主演舞台の稽古に入ってカンパニーを壊滅させたりする前に騒動が起きてまだよかったとさえ、今回の件を受け取っている。

 

理解のない反省ならしてなくてもよい。どうか今の世界を理解してください。人間、健康より大事なものはないんですよ。映画も舞台も成功するとよいね。

Stay my SixTONES?

今日は(もう昨日、2018/10/29、品川駅に突如としてSixTONESの巨大バナーがYouTube様によって掲げられ、アーティストプロモキャンペーンへの起用が発表された)数年に一度の祭り的お知らせでまだ熱病のような気分だけど、よかったなーってしみじみ…。

 

ストはバカレアの時にデビューさせるべきだったっていう見方もあるけど、私は、この夏まではJr.でよかったって思っていて。

キンキを歌うジェシ北の繊細で愛くるしいシンメがほんとにほんとにツボだったし、6人揃うことは決してないのが切なかったガムシャラ期も、名場面いっぱいあって、少しも無駄な時間ではなかったし。

何しろカツン担としてストのカツン曲の使い方に惚れこんでるから、あのカバーもこのカバーも最高の夢だったし、そうしたことの集大成として横アリ単独やサマパラ2018があった。

自分が見損ねた過去の単独コンのレポを読むと、なんてすごいJr.コンなんだ見たかった!とラオコーンのように後悔で捩れる。

 

でも一番の理由は、これまでのオリジナル曲を、タイアップでなく、(おそらく)かなり彼らの好みで作ってこられたことなのだ。

 

以下は、カツンのデビュー当時を知らない私があちこちで読んだ過去話のまとめで、細部は事実と違ってるかもしれないけど。

デビュー前のカツンは1人(か2人)の音楽スタッフと相談しながら楽曲をつくっていて、そこではメンバーの意向はおおむね叶い、先輩曲カバーも含めて自分たちが考える音楽の世界を演れていたのが、デビューとなるとスタッフも桁違いに増え、自分たちの意向はほぼ通らなくなり、たとえて言えばこれまでは「おにぎりを作って」と指示されていたのが、「おかかのおにぎりを」と具まで指定されるようになった如くに、自由に音楽を作ることはできなくなったのだそう。

(このおにぎりの例え、亀梨さんの感性の良さが端的に現れていると思う、天才)

まぁタイアップのある曲の話であって、カップリングやアルバム曲ではそれなり自由がきいただろうけども、シングルはグループの顔だもんね。

そして、この制約が、じわじわとロクンの結晶を揺らして歪めて、ついにばらばらに崩壊させるに至った、そういう一面はあったんじゃと思っている。

 

今のストも、音楽制作は専任スタッフが1人ついてて、その人と相談しながら楽曲つくったりライブの構成を考えたりしているって、雑誌で話していた(何の雑誌かはわかんなくなりました…)

その方のセンスが現在のストを実に上手く活かし、導いていると思うし、なんならカツンのJr.時代についてた方と同じ人なのではと思うくらいで、どうかデビュー後もこの体制のまま、ストが築いてきた、彼らがやりたい音楽世界がこわれなければいいのにと、無理と知りつつ切望している。

 

だから、ストのデビューを望むのは、彼らの立場の確保と、彼らの気がくさらないためであって、あれほどの音楽センスを持つ集団が、自由に楽曲制作をできなくなるであろうアイドルとしてのデビューは、私が見たいものをまた崩壊させてしまいやしないかと、夏以降はたいへんに拗れてました(実際どんなかわかってもないのにな…)

よく、Jr.が社長にデビューを直談判に行くと、「今でも仕事あるのにどうしてデビューしたいの? 大変だよ?」て云われてしまうと聞くのは、このことも含まれてるのかもしれんなって思う。

 

で、最新オリジナル曲のHysteriaです。あのとおり狂気の限りです。最の高です。この曲の攻めっぷり、ジャニーズJr.としては先鋭すぎて、普通のジャニのタイアップではNGになったんじゃないか。

しかし今回の起用の場合、これがMVの曲かどうかは現時点では不明だけど、いずれにせよYT側から「今そういう曲はちょっと…」とは云われまい、むしろ歓迎であろうかと。

 

ストは誰もデビューという形が目標とはいわず、国民的、世界的、という云い方をしてきた、それはこの6人で創る音楽の世界でもって勝負をしたいと思ってるからではないかな~というのは私の願望にすぎないが、今回の抜擢はまさにその形になるのでは、通常デビューよりもいい状況が来たんじゃないかと、震えてるわけです。よかったねぇ頑張ろうねぇ…><

 

ただ、これが来る前に、少クラでN.M.P.やっておいてほしかった。まだ間に合うよね今年中に録っておこうね…?><

でなければデビューアルバム・Best of SixTONESの特典に横アリもサマパラ2018もフルでつけようね?(結局デビュー希望するんかい)

俺俺みたよ(進行中)

日本の半分位で6月末にしか公開にならないという状況に恐れをなして、ネタバレ全開な感想はここにぽつぽつ積んでいこうと思います。あったまわるいのでたいした考察とかはありません…。

 

映画ベースで書きますが原作のネタバレもあります^^;

 

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6/25

* 2度目に大樹実家行く時(姉一家に会う時)って、やってることは夜せいぜい8時か9時っぽいのに、時計が1:40頃なんだよね。そんな深夜に訪ねていくほど非常識な子だったの均?

 

* 大樹実家の玄関の楽器、うっかり鳴らしちゃう時の音からピアノだと思ってたけどYAMAHA ORGANてロゴ入ってるの。んんん?

 

* 大樹母をつけて初めて檜山家をおとずれる時、均をじーっと見てる自転車押してる主婦、俺山のある駅のモブにもいるような。

 

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6/22

* 均のキッチンにブレーメンの音楽隊のポスター(The Bremen Town Musicians と書かれている)が貼ってあるのは何の暗示なんでしょ?

 

* サヤカのシャワーの水はなんで溢れてきたの? 倒れて排水口を塞いだのかと思ってたけど、確認したら排水口は離れたとこにあったよ

 

* 葬儀場、どうして大樹母は参列してないんだろう?

 

* 特に何ということではないけど、大樹実家で自分そっくりな大樹の写真を見ちゃった均が「ちょっと…」てパニック起こしかけるとこの演技が好き

 

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6/15

* これは、↓に書いてきたこととはまたちょっとパラレル的な考察なんだけども。

最後の場面のマサエさんが、髪をおろして服もヒラヒラで、大樹母要素が加わってることの意味を考えてましたが、あれは、均が大樹を削除して自分のすべてを取り戻す時に、大樹が持ってた…というより、彼に集約されてた超能力を得たのかしら? それで、マサエさんに欠けてた芸術性を大樹母から拝借して付け足したのか?と。

で最後の最後の微妙な顔の意味なんだけど、あの、手を洗ったあとの雫を人に飛ばすのって、南さんの習性じゃないですか。余計な要素まで付け加えちまったープチ失敗!(´д')の顔なんじゃないかと。てのは冗談で、余計な要素入っちゃったけどそれもいいか、て受け入れてあの顔なのか。これは自分の中ではこうっていうのとも違って、あくまで一考。

 

* マサエさんは3回登場して、3回とも紫の衣装なのは、なんか色相学的意味を持たせてるのかな?一般イメージの神秘、高貴と彼女は重ならないけど。

こちらの分類ではこんななってますね。盛りすぎや^^;

機能不全、自己回復力、高貴、癒し、欲求不満、感受性、祈り、瞑想、精神集中、崇高、威厳、安らぎ、平和、静寂、上品、神秘的、神聖、権威、芸術的、想像力、尊厳、不安、孤独、情緒不安定、うぬ ぼれ、精神的、気品、安定、洗練、非現実的、霊的、死、高位、優美、魅惑。

 

* 削除の始まりの日、大樹が血を洗い落としてるように見えるのは、溝の口以外の俺削除(巨乳ちゃんとか…!?)と思ってたけど、もしかしたらマサエさんなんじゃあ? だってマサエさんと上手くいかなくて、ナオんちに居候してたんだし、マサエさんあんなに均を嫌ってるのに、俺といっしょにいるか?って、連れて帰れないでしょ…。逆に均んちに居候したかったのかもですが。

 

* 均にフラれた大樹がホームに佇んでるとこへ電車が入ってくる場面の大樹のマネキンっぽさが、この人もあくまでコピー、主体ではないのだ、という結末を暗示してるんだなあと。どなたかが指摘されてたけど、ナオは均と一緒じゃない場面があるけど大樹はない。それは、ナオは他の俺と同じ、もとは別の人に均の顔を貼り付けた存在であるのと、大樹だけが真に均の分身であることを示してるのかも。

まあこの説だと、そもそも何故、大樹はナオを作ったのか、という謎が出てくるんですが。均の疑いが自分に集中しないためのカモフラージュ?

 

* 溝ノ口一行が来た時に均も大樹もめっちゃショック受けるのって、やっぱ巨乳ちゃんが大きいのかなって。自分の中のゲイ要素つきつけられたのが。ホモでない男などいないと云いますからのう。

 

* 最初の団地の場面って落葉樹がまだ芽吹く前なんだよね。寒いから均はもこもこカーデ。物語は6月だから、実家に帰って大樹と出会う場面で、チャイム鳴らして「久しぶり」って云うんだね。

 

* サヤカのオフィスにある不穏な物体って、ミサイルってことになってるけど、原爆にしか見えないyo…。

 

* 夜明けのイオンモール通りの場面を見るたび、これは千葉だ名古屋じゃない…と思っていたのですが、さっき本当に千葉だとわかって、それならそれで、何を根拠に…と(´∀')? 雑誌のどれかにあるのかなー。

 

* 今日のかめらじ(*´ω`) うれちい(*´ω`) 永久保存(*´ω`)

 

 

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6/9

* もいっこの記事に追加した方がいいような内容ですが。

均母と大樹母って、原作と映画で設定が逆になってて(大雑把にいえば、団地に住んでるか一戸建てか)その意味を考えてたんだけど、これも母からの肯定が子供の自立に重要ってことなんじゃないかと。

飾り気のない実際的な生活態度の均母は、息子のカメラに対して「学校出してあげたのに」と、払った負担の観点からしか語らない。

かたや大樹母は「やっぱり大樹の写真がいいわ。才能あったのにもったいない」と惜しむ。彼女は衣装もバラのイメージで通してるし、家もアンティークピアノをはじめとする装飾に満たしていて、美術的素養をうかがわせる。ゆとりある芸術的なお母さん、てことで、こちらが一戸建てになったのかな、と。

大樹が均の脳内から抽出されたけっこう理想の俺なら、母も云ってほしいこと云ってくれるまあまあ理想の母の投影だったのか。

サヤカも均の写真をほめちぎりますね。聖母であり魔女であるファム・ファタール

 

とても個人的には、大樹実家は家の中がああなんだからもっとガーデニングも凝ってると、より説得力あったんだけど^^ゞ まあ大樹母、汚れること嫌いだから花なんか咲いてりゃいいのよ!とかなのかもしれない。

 

 

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6/7

* ナオの可愛さって子猫の可愛さだよね。 

 

* 均が大樹の実家の動線がわからない、という演出はたいへんに興味深い。そして実家の間取りがわからないのと、大樹母や姉=他人の家族のリズムや間合いがわからないのは同質の違和感。

 

 

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6/6

* 奇しくも、均の独立記念日(田島から)6/5、俺俺詐欺記念日6/6と連チャンで観た!ヽ(・∀・)ノ

 

* やっぱりね、バーガーショップで、ばたーん「お客様大丈夫ですか!?」の時って、オリジナル大樹が倒れてたんだと思う。オリジナルの携帯が均の手に入った時に、運命が不条理の世界へ乗り換わって、鍵であるオリジナル大樹は眠りに結び込められ、その肉体というかこの世に存在しうるかたまりというかエネルギー体というかそんなものに、均から分離した理想の影が宿って、大樹の俺になったんじゃないかと。物語のあいだオリジナルはずっと眠ってて、最後に大樹の俺が削除された時に目を覚ましたのだと。

で、大樹の俺が消滅したことで不条理の世界の結び目がほどけ、もとの世界に戻ってきたので、大樹母は均を息子と思い込むどころか見知ってさえおらず、家の中からは若い夫婦や子供の声がするのでカスミ親子も死んでなかったことになってるのがわかる。もう母親たちは息子の顔を見失わず、おそらく他の俺だった面々も、元通りの顔元通りの生活に戻っている。

この、結び目が解けて世界が問題の起きる前へ戻り、トリックスターが消えて記憶だけが残る(均は覚えてる…よね? ;∀;) かんじ、銀の三角みたいだなーと思う

 

* 大樹が瀬島その他に均を削除されたくなかったのは、ほかの俺が全部消えて、もとの本体(均)と影(大樹)だけになった時が、本体を削除してその位置に入り込む唯一のチャンスだったからじゃないかな。でもそれ以前に自分以外に均を削除されたくないんだよねわかります

 

* 均に「違うな。俺とお前は別々の人間だ」「お前に会えてよかった」と云われたのは、大樹にとってどんな意味だったろうと。肯定と否定が同時にある。許せる自分と許せない自分がいる、と云った均だからね

 

* 賢くて強くて冷静な理想の俺・大樹。その大樹が、たぶん不要として自分から分離した要素でできたナオ。「劣化コピーは排除しないと」という言葉に怯えてたナオ。最後に均が思い出すナオのあのいたずらっこ笑顔がさあ。・゚・(ノД`)・゚・。

 

 

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5/31

* やっぱりナオは均から直に増殖したんじゃなく、

均→大樹→ナオ→溝ノ口その他

I          I→ 瀬島その他

I→ヤソキチ、田島、サヤカ

 

っていう分化だったんじゃないかなと…かも?の一つ。

 

* で、ナオには元の名前と住まいがあるけど、大樹にはそれらがない。ナオは溝ノ口瀬島田島…といった以下同と同じ、均の顔を貼り付けられて俺になってる存在で、そもそもメイン3人、ではない。メインは均と大樹なのだ。

こうして三位一体が解かれると、浮かび上がるのは均と大樹の対立であり、ゲド戦記で描かれたような自分と自分の影の存在獲得の戦いであることが、最後の場面へ向かって明確になる。

 

* 大樹は自分がオリジナルじゃないという自覚があったから大樹の名前を引き受けたんだよね?本体の後を追う影だから、均にとって代わるしか行き場がない。賢くて腕っ節も強いという理想の俺なのに、やっぱりオリジナルを出し抜くことはできないんだなあ…。ナオはエアホッケーの時、均の不意打ちが読めたのにね。

 

* 亀担なら胸を締めつけられずにいられない(ですよね…?)ナオのピュアさいじらしさ可愛さですが、こういうこと考えながら見るともう…。・゚・(ノД`)・゚・。 可愛い、可愛いよナオ。・゚・(ノД`)・゚・。

 

 *  そうそうだから、大樹は増殖能力は均と自分だけだと思っていたのが、ナオも殖やせるのを知って動揺し、まずはナオから削除にかかるんだよね。そもそも大樹にしても、事態の全貌が見えてるわけではなく、手探りでことを進めてたのだろうし。

 

 

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5/28

* 映画で、そもそも大樹じゃないし大樹とも大樹母とも遭遇もしてない人が名前・大樹を引き受けてくれるのが不思議で。原作だと語り手の俺が檜山大樹と呼ばれるようになって、実家にいたクールな人が永野均の名を保守する。その方が自然だよね。映画では主人公が名前を保守する方が圧倒的に話が整理しやすいのでこうなったんだろうけど、やはり大樹を一切知らない彼が、不服ながらその名を受け入れるのは不自然で、そこに何か鍵があるのかも?

 

* ナオが時々大樹っぽい件。監督が「キャラブレってみんな指摘するけど、現実の人間ってブレるものじゃん」って云ってるからそれだけのことなのか、あるいは、ナオは均じゃなく大樹の増殖なのかも?

そもそも主人公の均も大樹の増殖なのかもだし。

 

* カオナシのイメージで演じたと云ってたのと、均と大樹が握手をして別れる場面がまさしく、カオナシが千尋と乗る、海の上を走る電車のシーンそっくりの場所で、監督の意図と偶然に符号が合ったのか、亀梨さんの言葉を受けてそういう場所を選んだのか、どっちにしてもあそこは良いゾォッ感だった。

 

 

すべて母の息子 - 俺俺

※ もりもりネタバレしています

 

 

初見で強かった印象の一つが、いかにも男の子は、お母ちゃんに肯定されたい生き物だよねえ、という。

冒頭で「あんたのことは私が一番わかってる。あんたを最初に認めたのは私よ」という均の母。

息子を信じ、ぽんと大金を出してくれ、心配してやってきて抱きしめてビンタして、他人だけど全面的に受け入れてくれる大樹の母。

そしてサヤカ。

 

大樹母の母親力というのがものすごくて、上のように書けば理想の母親像だけど、画面の彼女のマイペース感、理不尽感たるや、この映画を象徴する存在はむしろ大樹母では?と思うほど。独特の緩急はげしいリズム、突然の欽ちゃんギャグ、英語、抱きしめたりビンタしたりジェットコースターのよう(暴力的なのは大樹姉も継承してるが)

家族だったらあのペースに慣れてるのだろうけど、均はこのよそのおばさんが次にどう出るのか見当がつかず、一挙一動にビクビクしてる。

しかし母親ってそもそも、ああいう理不尽な存在じゃないです? 母親であることがもう家族に対して全権である、みたいな。

 

均が、先に団地の母に拒絶されるのでなく、知らないおばさんとはいえ、実に母親らしい母である大樹母に全面的に受け入れられた後で、実の母に拒否られるのは、本人意識はしなかっただろうけどけっこう救いだったんじゃないのかと思いました。それでもちょびっと泣いちゃってたしね。可愛いですね♡

 

そしてサヤカです。この人も年上、人妻という母親要素を持ち、実の母たちより正確に均を認識し、肯定する。均はもう子供ではないので、よその成熟した女性から認められてこそ一人前の男としての自信を確立できる。3人目の母であり、越えてゆくべき親の屍である存在。

 

それやこれやの果てに、均は初めて母を、本人の希望通りマサエさんと呼ぶ。自分の存在を確固たるものと認識できたので、母のことも自分の親であると同時にひとりの人間なんだと、切り離して見られるようになった。もう名前で呼ぶ=へその緒を切っても、自分の存在がゆらぐ恐怖がなくなったのでしょう。

 

らぢおとむさんの考察で、あの給水塔は子宮の形だと指摘されてたので、実に象徴的な背景だったのだろうと思います。私エヴァの使徒みたいとしか思ってなかった^^ゞ

 

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大樹母が均のアパートに泊まって、なぜか下着姿でお休みになってるとこ、高橋さんの熟女のお色気に均も観客もドキッ☆としちゃうのが、”おふくろ”も女の人なんだなー母親でおばちゃんなだけじゃないんだなーってことに均が初めて気づく場面なんだと思う。そのあと団地の実家に行って実の母に拒絶された時が、本当は初めて母をマサエさんと呼んだ瞬間で、あの時点で既にそれまでとは母親とのスタンスが変わってるんですね。

 

 番宣活動の中で、亀梨さん本人が何度か、「男って母親の前ではちょっとカッコつけていたいじゃない」って云ってましたが、他の人がこう云ってるのを聞いた記憶が私はあんまりない。だからこそ、この主役は実に彼のハマリ役だと思うのであります。

 

 

ジェイン・エア

映画見ました。

 

隅々までキャストが原作と同じ顔だった(゚д゚)

 

ジェインが完璧に私のジェインだし、ベッシーなんて一瞬映るだけだけどベッシーだ!て人。ヘレン・バーンズがルネッサンスの天使みたいな顔でねぇ(ノД`) リトル・ダンサージェイミー・ベルがシン・ジンをやる年齢になって(ノД`) ファナティックで嫌味で、ちょうシン・ジンだった…

強いていえばロチェスターさんは男前すぎ?でも映画なのであのくらいのビジュがほしいとこだよね。イングラム嬢がちゃんととても綺麗で歌もイングラム嬢だった!

パイロットはあれは何だったんだろう…プロットハウンドとか?

 

風景や陰鬱なイングランドらしさはさすが原作の地。ビジュアルと音楽には非の打ち所がありませんでした。

 

 

 

映画の尺は仕方ないので、不満ということではないのだけど、自分が好きな部分はこういう時省かれる枝葉末節なんだなーと。

 

ゲーツヘッドでもローウッドでも、ジェインには味方をしてくれる人もいて、完全な孤独じゃなかったところ。ヘレンだけでなくローウッドにおいてテンプルさんの存在は重要だよね。愛情で指導する人も中にはいた、という。

 

リード夫人の危篤で再会したリード姉妹。別れ際にイライザが「さようなら、従姉妹のジェイン、元気で。あなたはしっかりしてるからいい」と云う時、この従姉妹とは兄より妹より同じ話ができる関係になれたろうにという悔恨と共鳴がひびく。彼女のその後が語られることからして、ジェインとたまには手紙のやりとりをしたと思われるところも好き。

イライザはその後も含め、シン・ジンの女性版だし、この2人のその後は原作当時の道徳観のあらわれで、物語の柱とも呼応してる。

 

ロチェスターさんが「静かにして、小鳥が自分で羽をむしってるようだ」というとこ。あとこの場面は薔薇の咲く四阿のある庭園じゃなかった?花みたかった…

「あなたは…それは、あなたは私を忘れますよ」ってとこは入っててよかった。あの台詞は私の乏しい恋愛小説記憶でトップクラスなのである。

 

再会の時ももっと色々話してるのに、映画ではちうで片がついちゃうのがちょっと勿体無いかな…あそこ急ぎすぎだよう。大奥映画のラストもあんな感じだったなあ^^;原作知ってる人は脳内補完してね!なのか?

 

原作知ってるってやっぱり豊かなことだなあと改めて知りました。俺俺や永遠の0も、映画観た後でちゃんと原作も読もう。こういう場合は先には読みたくない、映画初見の時に気が散るから^^ゞ

 

ところで公式サイトはめちゃめちゃひどいネタバレなので、原作知っててよかった…。最近の映画って公式で7割ネタバレしちゃうから嫌だ。日本人そんなにバカなんか?

 

(※)台詞は記憶による吉田健一訳に基づきますが、いま本が手元にないので正確ではありません><

ベム7回目

ついったで思いつくまま感想を連投してご迷惑おかけしてましたが、140字の限界に膝を折りまして。

 

 

ベムラロの擬似親子関係。

そもそもこの3人が、役でも素でも、親子に見えることって私はないので、そういうフィルターなしの話。

 

ドラマ時に素の3人が親密になるにつれて、劇中でも川の字で手つないで歩いたりするようになるのはどうなんかなあ…だった。同時に生まれて百年前後も共にしてきた者同士、見た目が子供だからってああいう子供扱いするものか?と…ベロ精神も成長しないからアリなんだろうけど。

 そこからの映画のベラの母親的言動は、物語の流れとしては、夏目家との交流で感銘をうけた親と子供の関係をなぞってるのかなーと。

 

赤男の幻影を見るベムの葛藤は、人間にならない選択をしたのは独りよがりだったんじゃないかってことかと思うけど(当時はベラの方が先に、このままでいいって決断してたはずだけど)、ベロはその選択を押し付けられたと思ったことはないんじゃないかな。自分は自分で半妖でいることを選択したと認識してると思う。

ただ長い習慣だった「人間になったらと想像して人間の真似をする」のは、ベロにとっては引き続きちょっと心浮き立つことのなので続けたい、ベムはそれをもう完全な夢とみなした上で付き合ってくれて、実際的なベラはそんなに人間に憧れるならやっぱり人間になった方がいいんだ、と方針転換して、うっすら3人のあいだに亀裂が生じている。

 

そう来て、夜の灯台島で3人が云い合う果てに、ベロがベラじゃなくベムに抱きついて泣き出すとこは、回想の小百合みちる親子の場面と照らし合わせて、ベロの意思表示なんだと思う。ベロの心に寄り添ってるのはベムの方なんだよね。

 

自分よりみちるちゃんの幸せを、と泣くベロは、みちるちゃんが何も知らなくても、お母さんが殺人を続けているという真実を悲しんだのかな?

 

ベロは、今のままの自分を人間に受け入れてもらうことは叶わないの?という悲しみを多分一番強く抱えていて、それが叶う話がフランケンウィニーなんだよね。監督との対談、今月どのインタビュでも語りまくってることだし、ベムファンはあちらもおすすめ。

 

映画は2時間ほどの尺で、ドラマよりさらに余裕がないわけだけど、脚本の説明不足、どうでもいいとこが冗長かと思えばいきなり観念論に飛躍するという欠点がより強くなったのはかえすがえすも残念。節目ごとに何かいいこと云ってるからそのメッセージが伝わればよし!なのかなーそれでいいんかいなー。

 

アラはツイでぶつぶついいまくってしまった「俺たちが犠牲になる」につきるが、人間の幸福を人知れずとも影で支えたいというベムの思想を集約したこの台詞と、社長とのやりとりの具体的内容が完全に噛み合ってダブルミーニングを為すのが、あるべき脚本、職人芸ってものですよね。あそこがカチッと合うと、凄みも説得力も、何百倍にも爆発したと思うのでほんとに残念。

 

ていうか俺たちが犠牲になる=犠牲賛成=社長正しい=上野家は黙って泣き寝入りしてろ、になりかねないのよ。河野PはなぜあそこあれでOK出したんだろう。

 

色々ゆーてるけど映画自体は好きです。あと何回行けるかな。